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LAST NIGHT / talk event / 2020.8.25

ふげん社コミュニケーションギャラリー 

ゲスト:沢山遼さん

(挨拶など前略)

 

 

- 抵抗する物質 

 

沢山:僕はずっと熱心にリリーさんの作品を追いかけきたというよりは、これまでの作品資料を見せていただいて、ちゃんと作品を見るのは実は今回が初めてなのです。今回は写真作品のほかに、ドローイングとペイティングがあり、それから壁に直接に描いているという意味では「ウォールペンティング」があり、そして写真と絵画の中間にあるもの、またはその二つのジャンルにまたがるものが展示されています。単に写真と絵画の両方を展示した、という形態ではなく、写真から絵画へ、またはその逆へ、というように、複数の異なるメディウム/ジャンルの間に、段階的なグラデーションを残しつつ変わっていくプロセスが、個々の作品の中に取り入れられているという印象を受けました。要するに、「写真―絵画」という二分法ではなく、それらが奇妙な形で混在している。全ての作品のなかにその特徴が見られますね。

LILY:コメント頂きありがとうございます。これは個展なのか、グループ展なのかがよく分からない声もありましたので、理解されて嬉しいです。

last%20night_edited_edited.jpg

LAST NIGHT (2020) 

H515×W1400×D20mm 

lambda print, aluminum mount, wood panel 

沢山:リリーさんのことを全く知らない人がこの会場に入ってきたら、ここで何が行われているのかと、 一瞬混乱するかもしれないですね。率直に言って、映像として受容しにくいとか、どう受け取ったらいいかが分からない、ということが起きるかもしれません。ここで展示されている作品群は、構図がはっきりして分かりやすい写真、あるいは鮮明な写真、決定的な瞬間が撮られた写真というものに明確に距離を置いている、といえるでしょう。

 

LILY:既存形式のすべてに距離を置いているかもしれません。

 

沢山:リリーさんは写真という単独のジャンルの中で表象の問題を扱っているというより、さまざまなジャンルに共通して存在するイメージの問題を扱っているような気がします。ただ、普段わたし達は特定のジャンルの枠組みのなかでものを見るように訓練され、教育されている。例えば、絵画というジャンルのなかには、人々が受け入れることの容易な、つまり、絵画の歴史的な表象体系に従った映像が氾濫しています。写真の場合も同じく、写真というジャンル、写真という歴史の中で培われてきたイメージを作り出す技術や方法が確立されている。それに一致したものが認識されやすいのですね。要するに、写真の歴史の中で作り上げられてきたコード/記号に従って、私たちは写真を見ている。そして、人が撮ってきた写真を膨大に見ることによって、そのような記号が内面化されていく。つまり、映像それ自体には、歴史に蓄積されてきた受け取り方、消費の仕方、というものが含まれているんですね。

おそらく、リリーさんは、そういった記号として築われてきた規定の映像性を壊すことを企図しているのではないかと思いました。いままでの歴史の中で、内面化されてきた記号体系が、ここでは一度外されています。しかも、それがグラデーションとして、さまざまなメディア、メディウムが干渉しあい、写真と絵画が持つ映像性が混ざり合わされ、そのなかで、新たな物質としての作品が生まれている、という印象を受けます。

 

LILY:思考の隅々まで読み解いてください、本当に感心しました。コードのようなものに徹底的に抵抗したい、というのは制作の原点ではありました。

 

沢山:写真には具体的なものを映してしまうという特性がありますよね。カメラもスマートフォンも、 シャッターを押したら何かが自動的に映ってしまう。その限りにおいて、全ての写真は具体的なものとのつながり、あるいはある種の具象性があります。一方でリリーさんの作品では、単に画素数を落とすとか、トリッキーな構図を使うとか、そういったことを行うわけではなく、写真自体がストレートで、ある意味で素朴な撮り方をしている。しかし、むしろそのことによって写真に付きまとう具象性を操作することに向かっていますね。

 

LILY:そうですね。写真の即物性がとても彫刻的だと感じています。自分の作品は大きめの作品が多くて、それは目だけで見るというより、作品が持っている身体に訴えかける力を感じてほしいという気持ちはあります。 物質そのものではないですが、物質性みたいなものが、絵画と違う形でにじみ出ていますね。その両方について改めて推敲することが、現代のメディアやデジタル化の波にただ単に流されずに済む唯一の手段だと考えています。

 

沢山:流通のスピードみたいなものに抵抗しているという感じですかね。僕は毎朝インスタグラムをチェックしますが、一枚の画像に1秒もかけずにスクロールしている。写真を静止画として見ているとすら言えない。そういった動体視力で眺めているだけのメディアにおいて、どんな写真が求められているのかと言えば、分かりやすく記号化されている画像ですよね。瞬間的に目に入ってくるものや、わかりやすく関心を惹きつけるもの。リリーさんの作品には、そうした見やすさへの抵抗が孕まれているのではないですか。ものが写されているのではなく、むしろ複数のものが干渉し合う状況、状態そのものが写されている。

 

LILY:今回の展示では、一番興味深い作品はどれですか?

沢山:今の話の流れからすると、リリーさんが取り組んでいる問題が顕著に現れているのが、この作品(GARDEN(2019))かもしれないと思いますね。まず、この写真は、ものとして強く物質化されていますね。スクリーンとしてのイメージではない。横の側面にも映像がプリントされていて立体的。彫刻のような感じですね。また、写真のパネルが柱のように分割されていることで、写真の中の柵と対応しています。また、壁面に黒い絵具で描いた線もそれと対応している。一つの表象にそれぞれ異なる物質性を持ち込み、それらがお互いの中に入り込んでいます。その組み合わせのなかで表象が壊されつつ、再構成されているようにも見えます。

こちらの作品もそうですが、ほかの作品でも、明確な波形を持つパターンが他のものの干渉を受けて、崩壊しながら、形を維持していく様相をみてとることができますね。リリーさんの作品の特徴の一つは、映されたものの中から、幾何学的な形だったり、規則性や連続性だったり、作品を見る人の中である種の造形行為がなされていくような印象を受けますね。

LILY:ちなみに、この作品を見るのには何秒間をかけましたか?(笑)

 

沢山:映像としての、物質的な抵抗感をすごく感じました。さっと見られるようなものではないですね。

優先②.jpg

GARDEN (2019) 

H1090×W1560×D30mm 

lambda print, wood panel 

- 複雑さについて 

沢山:今回の個展のタイトルは「LAST NIGHT」ですが、「last」という単語が複数の意味を持っていることが興味深いと思いました。「last」には、「最新の」「最後の」という意味のほかに、動詞としては「続く」という意味がありますし、「at last」だと「ついに、とうとう」という意味にもなるというように、この単語には複数のコノテーションがありますね。何故このタイトルにしたのですか?

LILY:自分は常に時間性を意識しながら制作しているというか、生活していますが、「昨日の夜」とは、出来事としても記憶としても、まだ定着していなくて、妙に現実と幻との間にある状態だと感じています。そのような状態とは、時間と空間の次元もはっきり分けていない風に感じています。例えば、夢から目が覚めて、電気をつけると、その夢が思い出せなくなるとか、昼間の強い光に照らされる度に、前の夜の記憶が少し薄れてしまうような体験がありませんか。逆に最初の体験からさらに時間が経つにつれ、自分なりに構築した記憶が定着されていき、明確な物語が生成されます。自分が興味を持っているのは、明確なナラティブが作られる前の段階ですかね。

 

沢山:時間の問題は重要ですね。一日の時間の中で、夜中は突然訪れるものではなく、段々に侵食しあう時間の進行のなかで、いつも気づかないあいだに訪れている。同じように、次の日になった時に思い出す昨晩はすでにモヤ、ヴェールがかかっていて、いつのまにか距離をもつものになっている。夜もまた、そのような持続されるリズムが同一性を保ちながら変化して、形を変えたり、崩壊したりする経験のなかにある。それは、僕たちの身体のメカニズムとも連動しているのでしょうね。

LILY:一日の境目とはどんなものだろうと思ったことがあります。零時が過ぎて、早朝1時ぐらいには自分の呼吸が聞こえてくるぐらい周囲が静かになってきて、真夜中の感触に浸っていたら、2時半ぐらいから虫の鳴き声や鳥が飛ぶ音が聞こえ、世界が蘇生する息遣いが感じてきます。そして4時ぐらいになると、空が徐々に明るくなってきますね。実は光が見える前から朝がきています。そのことに深い感動を覚えています。

そして「夜」というものが現代において、言葉としては存在していますが、身体的な経験としては、されなくなったと思います。見える世界と見えない世界をつなげる時間であり、空間であり、万物が一つ大きな影に回収されながら、表象から解放される、非常に大切な時間だと思います。

 

沢山:現代社会は文字通りの24/7の社会になっていますね。どこかで読んだ記事ですが、AmazonとかNetflixとかのトップが、これから彼らがいちばん狙っている領域というのがあって、それが人々の睡眠時間であると言っていたらしい。それが彼にとって最大の資源なんですね。

 

LILY:人間主体が情報社会においては、どんな立ち位置をとっているだろうという疑問もありますね。

 

沢山:写真は決定的瞬間を撮るものだ、という一般的な通念があります。写真はかけがえのない瞬間を撮るものであり、映されたものは遡ることができない、という神話。リリーさんの作品を見ていると、そういう神話を壊したいのかな、という印象を受けました。例えばこの一枚ですが、手が二つあるとか、唇が二つあるとか、一枚の中に二つの映像を組み合わせていくという部分がありますよね。

.jpg

Void#2 (2017) 

H550×W1270mm 

pigment archival print 

LILY:この作品は、小さいキャンバスにコラージュとドロイングをして、スキャンしたデータを写真として提示しています。

 

沢山:リリーさんの仕事では、写真に絵を描いたりすることで写真に物質的な要素が加えられるわけですが、それをもう一度スキャンしてデータ化するプロセスがすごく重要だと思いました。写真を物質化した後に映像化するわけですよね。

 

LILY:そうですね。こちらも2枚になっています。左の一枚を部分拡大して、右の一枚となりました。「二回にわたってそれぞれ見えたもの」を並べることで、時間と空間を交差させている意図です。

 

沢山:実は非常に細かい操作がなされていますね。一つの画面の中に複数の像があって、初期のモノクロームの写真群もそうでしたが、絶えず「一枚」の写真というものが解体されて、複数化されていく。 そして複数でありながら一枚の印画紙に落とされ、組み合わせられ、現代における視覚(ビジュアルによる知覚)のリアリティが反映されているのではないかと思います。

 

LILY:そうですね。確かに初期からそういった関心ありました。無数に分断され、本来の文脈から隔離されたイメージが氾濫し、私たちの中にたくさんの分裂を起こしているのではないかと思います。 時間をかけて何かを読み解くことは、専門家に任せることとなり、また、そのようなプロセスは、現代社会を支える生産様式と消費習慣とは、噛み合わなくなっていますね。

 

沢山:言葉の世界でも同じようなことがままありますね。僕は文章を書いていますが、分かりやすく、というプレッシャーは書き手であればいつも感じていることでもあります。ひたすら分かりやすく、パッケージされ、コンパクトにまとめられた言葉にしなければならないと。しかし、それ以前にそれに対応する現実のほうが当然それほど単純なものではないわけです。ある程度複雑なものを簡略化して語ることはできますが、言葉は簡略化のツールではない以上、複雑な事象に相応するものであるべきなのです。

 

LILY: 残念ですね。学生時代に惹きつけられていた「ディスコース(discourse)」というものが、誰にも求められなくなっています。

 

沢山:なぜ言説にはある程度の複雑さが要求されるかというと、世界の成り立ち、世界の組成のされ方が、そもそも複雑だからですよね。言葉によって対象を記述することは、そのような世界を言説によって構成し、世界を把握することだから。

ゆえに、言説を駆使することは、そのように構成され把握された世界からいかに複雑なものを読みとき、自分なりの解釈を持ち出せるか、というリテラシーと関わるものでしたが、今はいかに複雑な事象を捨てて、物事を単純に把握できるのかが重視されていますね。そこにはやはり抵抗すべきだし、写真とか芸術が持ちうる希望の一つは、現実の複雑さに対応できる作品をつくる、ということがあるのではないかと思います。

 

LILY: そうですね。アーティストになりたいと思ったのは、イデオロギーから解放され、「自由国」の市民権を獲得したいと思ったからです。作品をつくり、提示し、見る人を混乱させることもあるかもしれませんが、主流のメディアに対抗する小さな気候を作れたらいいなと思いました。

 

沢山:現実の複雑さに対応した作品をつくることによって、現実の単純化に抵抗する、という部分がありますよね。

- 時間-音響-空間

沢山: ちなみに、額装された一連のペンティングですが、背景が黒になっていますが、何か理由があるのですか?

 

LILY: 黒い背景に白い絵具、または明るい色の絵具で描いた線や形が色んなものに見えて面白かったですね。光のように、痕跡のように、謎の物質にも見えて、体液とか臓器のようにも見えました。おそらく自分の中では、反射光を通して物の表面を観察して制作を行っているというより、影という存在により興味深くて、このドロイングシリーズは、フィルムのネガを手描きして、フィクションとして作ってるような気持ちもありました。上の列は黒い紙で、下の列は黒いプラスチックフィルムに書きました。

 

「痕跡」とは自分にとって重要なワードです。写真のフィルムネガも傷つきやすいものですが、映画フィルムもかなり脆弱なものですね。快速の回転で燃えついてしまったら、一回の上映で消えてしまうリスクを負う物質です。工業社会以前の物質は、変化し続ける自然に近い存在でした。常に外部の環境に影響されて変化します。われわれの身体性もそれに近い状態でした。しかし現代の大都会を生きる私たちは、何も焼き付かない身体を持つようになっているように感じています。傷づけられないように生きる、みたいな生態が形成されています。そういうことに違和感を覚えて、制作の中では物質の痕跡をもたらす行為を取っています。

 

沢山:現実の皮膜を剥ぐというか。

LILY:そうですね。

 

沢山:ドローイングというか、ペンティングだと言っていいと思いますが、この一連の抽象絵画も今日話してきたことと関係すると思いますが、もう一つは、音や音楽とも関係するかもしれません。音というのは波形であり、空間における波動ですよね。この作品からは、波形、波動による音楽的な感覚を受け取ることができます。

 

LILY:12歳までバイオリンを習ったことがありましたが、楽譜に記述された記号を読みとって演奏することがあまり好きになれなくて。恐らくそういった間接的な転換よりも、波動を直接的に捉えることのほうが自分に合っていると思います。

 

沢山:なるほど。例えば、ジョン・ケージはある時点で作曲を行うことを辞めてしまうのですが、結局、作曲という行為は、音を記号化して、配置していく、固定化していくことだったからだと思います。ケージは作曲から音響に向かいました。作曲行為が時間的な構造に音を分布させる行為だとすると、音響とは、空間における音の拡がり、空間化ですね。そのような環境に開いていくという意味では、リリーさんの作品は音楽より音響に近いかもしれません。

img070.jpg

Flag (2020) 

H718×W1078mm 

lambda print 

LILY:なるほど。実は今作っている映像作品は音響を意識した内容となります。そして、展示を行うことが大変ですが、実際に物を空間に存在させていくプロセスも好きです。個々の作品間に波動が発生するように展示構成を考えています。

 

沢山:この展覧会自体も、複数のものが干渉しあって、ある種の立体、もしくは身体が立ち上がってくるような感覚がありますね。

 

LILY:もし他にご指摘がありましたら、ぜひ聞かせてください。

 

沢山: この個展は、さまざまな作品があり、一見すると雑多に見えて、鑑賞者が混乱するというところがあるかもしれませんが、今日話してきたように、その雑多さの中には明確な問題設定があって、筋が通っていると思いました。今後の活動も楽しみにしています。

 

LILY:色々聞かせていただき、誠にありがとうございました。

沢山遼(さわやま・りょう)

美術批評。1982年生まれ。2009年「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」で『美術手帖』第14回芸術評論募集第一席。論文や雑誌などへの寄稿多数。最近の寄稿に「形象が歪む──アヴァンギャルドとキッチュ」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』引込線・放射線パブリケーションズ編、EOS ArtBooks、2020年)。